ボランティア9年目、個人的に思うこと
今回東日本大震災、東電福島原発事故から10年を機に、個人的な記録を書いてみることにしました。
2011年4月4日、初めての孫が誕生しました。娘、18歳、シングルでの出産でした。
東日本大震災と東電福島原発事故が起こったのは娘が臨月の時、直後には私たちの住む埼玉県滑川町も計画停電が行われました。
私たちは広島に住む助産師経験を持つ友人を頼って、あちらで出産することも考えました。産婦人科跡取りの若い医師は「もし出産時に計画停電でお産が順調ではない場合、十分な対応ができません。赤ちゃんを守れるのは母親だけです。原発についてもマスコミを信じないで。」と紹介状を書いてくれました。友人も、いつでもおいで、と言ってくれました。
待合室には福島から避難してきた妊婦さんがいました。その方は、慣れない土地での出産を不安に思い、やはり福島に戻って出産することに決めたそうです。医師は「本人の意志なので引き留めることはできない。」と沈痛な面持ちで話してくれました。
結局、私たちはこの若い医師を信頼し、検診に通った地元の産院で出産することにしました。
娘は余震が続くなか無事元気な赤ちゃんを出産することができました。
安堵と喜びも束の間。
金町浄水場の水道水から放射能が検出されていたころでしたので、私はまず水のことが心配でした。ナースステーションに問い合わせたところ、母乳が十分に出ない場合には、水道水で作ったミルクを与えます、という回答でした。私は家にあったありったけのペットボトルを持って、3人いた新生児にはこれでミルクを作ってほしい旨を伝えました。ところが・・・
「気にしているのはNさんだけなので、Nさんの赤ちゃんにはペットボトルの水でミルクを作りますね」
という意外な対応でした。
初老の病院長は若い医師の見解とは違い「放射能は心配することはない」との考え方であることがわかりました。
「最も弱い新生児を放射能から守ろう」ということは世間一般の合意ではないのか、と愕然としました。
放射能に取り巻かれた世界に生を受けた赤ちゃんをどう守ればよいのか。積極的に動かないと子どもたちは守れない、と思いました。
生まれたばかりの赤ちゃん。この先初めての離乳食も食べることでしょう。
ひとさじ、ひとさじ小さなお口に運ぶ食べ物には、放射能が入っているかもしれないことを心配しなくてはならないなんて。
都会育ちの私は、よき仲間との出会いで自然育児の楽しさを知り、娘たちはどろんこになって育ったのに、孫たちは自然とのふれあいができないなんて。
そんな時代にしてしまった!涙があふれました。
それが市民放射能測定室の立ち上げに関わることとなった初期の動機です。
私の中には、知るほどに不条理なことが積まれていきました。のほほんと暮らしてきたつけ。福島の原発でできた電気を使ってきた申し訳なさ、何より子どもたちの未来をなんとかせねば、という思いは行動のエネルギーになりました。
事故後にできた地元のネットワークの仲間たちは、小学校や幼稚園の園庭の放射能を測定してほしい、給食の食材を測定してほしい、修学旅行や野外活動の行き先を汚染の少ないところに変えてほしい・・・と一生懸命に慣れない行政交渉をしたり、議会への請願をしたり、講演会を開いたり・・・もちろん空間放射線の測定器は必需品となりました。疾風怒濤の日々でした。
2012年になると、食品や土壌を測る市民放射能測定所が全国にできつつありました。
家庭菜園でとれたキャベツ、土手のヨモギなど、気になるものを持って数人で東京のこども未来測定所へ行ったのは春でした。測定結果を待つ間、パソコン画面をドキドキしながら凝視していたのを思い出します。下限値の説明を受け、どれも「不検出」と聞いたときにはほっとしました。一緒に行った方が涙ぐんでいたこと、帰りの電車の中では会話もはずみ、久しぶりに心が軽く思えたことは忘れられません。
測定で見えない放射能を可視化することによって、口から入るものに気を付け、内部被曝を減らしていけば埼玉でも子育てできる、と初めて思えました。
何より市民放射能測定室は、私たちの心配ごとを正面から受け止めてくれるカウンセリングの場にもなりうる、ということを実感しました。
そのうち誰ともなく「食品や土壌を測定したいね。自分たちの測定器があれば」と言い出しました。
秩父でも測定所を立ち上げようとしていた方たちがいました。「測定器を扱う代理店で測定方法の研修を受けるので一緒に来ませんか?」と声をかけていただき、実際に測定方法を体験したところ、操作自体は意外と簡単だったので「できるかも」と思いました。
測定器が値上がりしていること、3か月待ちであったこともあり、私たちは先のことは考えずベラルーシ製の測定機器(当時160万円)を発注してしまいました。
あわてて場所を探し、半セルフで改築をし、研修をし、システムを考え、パンフレットを作り・・・その立ち上げには、書ききれないほどたくさんの人たちが力を貸してくれました。
私の子育て時代の仲間たちも協力してくれました。
私も、家事を娘に任せて飛び回りました。
「念ずれば通ず」
その年、5月から準備を始めた測定室は10月に開室となりました。
子どもに関わる施設、農家さんには測定料金を2割引に設定しました。
「子どもの命を守る」それが私たちの測定室の「使命」でした。
本当に測定に来てくれるだろうか?その不安は軽く吹き飛ばされ、開室当初は次々に測定希望の方がみえました。週3日の開室日だけでは間に合わず、忙しい日々が続きました。
やがて測定室は単に測定をする場ではなく、地域コミュニティの拠点の一つにもなっていきました。
2013年、参議院選挙が行われる年、私は一つの映画と出会いました。「カンタティモール」(広田奈津子監督)という音楽ドキュメンタリー映画でした。群馬県で小さな上映会を主催した若い消しゴム作家の女性は、参議院選挙が行われる今、どうしてもこの映画を広げなくてはと思った、と話してくれました。この映画は東ティモールの人々が命がけで独立を勝ち取るまでの凄惨な歴史を、生き残った人たちや初代大統領シャナナグスマンへのインタビューと美しい音楽でたどる映画でした。
私はこの映画を見たあと、しばらく言葉を発することができなくなりました。この映画は、自然の営みをおろそかにし、人と人とがバラバラになっている現代日本社会への警告のように思えました。私自身もこれからどう生きたいのか?と問いかけられている気がしてきました。
そのころ、測定室にたびたび足を運んでくれるさわやかな青年がいました。私は彼に「カンタティモール」の地元での上映会をやらない?と声をかけてみました。
直後にあった映画上映会と監督トークに行ってきた彼もすっかりこの映画の魅力にはまりました。彼の呼びかけで集まった若有機農家のファミリーがまた仲間に声をかけ、私たち測定室のメンバー有志も加わり、老若男女のにぎやかな実行委員会が作られました。
2013年の秋から2014年のはじめの農閑期に、地域での手作りリレー上映会が行われました。毎回のミーティングは森の測定室で、ときには持ち寄りの食事をともにし、ときには歌など歌い、笑いの絶えない忘れられない幸せな時間となりました。
シングルマザーの娘も子連れで実行委員会に参加していたのですが、気が付くとこの青年と恋をして、やがて結婚することになりました。
娘はたくさんの方に支えられながら資格をとり、看護の仕事につきました。
現在、2011年生まれの孫は10歳になるところ。3歳の可愛い妹もできました。
日々の生活は多忙で、貧乏暇なしを絵に描いたような娘ファミリーですが、カンタティモールで問いかけられた「幸せってなんだろう?」に答えるような毎日を送っているように私には思えます。
現在、森の測定室は9名のスタッフ(うち、常勤は6名)で毎週水曜日に開室しています。
それぞれの人生が絡みながらの開室9年目。顔をみるとほっとする仲間がいることはなんて幸せなのだろうと思います。
ちなみに代表は娘のパートナーとなったかつての「さわやか青年」がやっています。
大震災、原発事故からの10年を思うとき、真っ暗闇の中に射した光のまぶしさをまずイメージします。
そして、世間では「風化」が言われるほどに、私の中ではふるさとを追われた人たちの無念さを少しでも共有したいという思いがつのります。
重たすぎる荷物は、一人でも多くの人と背負わなくては。
「風化をさせない」という思いで測定室に関わりながら、同じ時代にともに生きていることを忘れないでいたいと思います。