3.11で芽生えた危機意識
2011年3月11日のその瞬間は東京都目黒区にいました。
勤務先の取締役の方が車通勤で、当時私が住んでいた川崎市多摩区の隣の麻生区にお住まいだったので、幸い帰宅には苦労しませんでした。
原発事故の影響もあり、翌週の月曜日は電車の混乱は収まらないにも関わらず、ノコノコ出勤しました。今にして思うと原発事故の怖さをまるで認識できてはおりませんでした。
東京が放射能プルームによって酷く汚染されたと知ったのは事故から半年近くが経ってからでした。私は裏事情に詳しい仕事先の社長の命令で浜松に行かされました。私の配偶者はイタリア人の友人たちに促されて実家のある広島に行きました。在留外国人は放射能プルームが来ることを知っていたということです。同じアパートに住んでいた他の住民たちはおそらく放射能プルームが首都圏を襲ったことをその時は知らなかったであろうし、小さな子どももいる家庭がそこに残されていたことを非常に残念に思い、自分の無知を悔やみました。
政府が汚染を住民に知らせなかったことへの怒りがこみ上げてきて、反原発デモには積極的に参加するようになり、そこで色々な方と知り合うことができました。
反原発デモに対して、警察の公安が目を光らせている光景に遭遇し、電力会社の料金徴収部門が警察官の重要な再就職先であることをデモの参加者から知らされ、警察が自分たちの利権を守る目的で市民を見張る構図も目撃でき、また原発が動いていなくても電力が足りている現実に、電力需要の観点から原発を「必要悪」と考えていた自分の無知をここでも思い知らされました。
原発事故を起こした人々やその関係の利権に群がる人々にとって、「放射能汚染された東京」という現実から人々の注意を逸らすことが最大の目的である以上、このまま首都圏で生活を続けることはやめにしようと思い、関西に移住しました。
関西に来てからは、大阪の関西電力本社前での反原発デモを行う人々と交流しました。
ここでもデモに参加する人々を公安が見張り、ときに不当逮捕される現実にも遭遇しました。
西宮市に市民放射能測定所の開設をめざす人々ともそこで知り合い、汚染の現実をデータでしっかり残すことに意義を感じ、開設作業に加わるようになりました。
阪神・市民放射能測定所が開設されてからは、放射能測定の方法をおぼえること、放射能・原発事故に関心を持つ人達の前でお話をさせていただくことと同時に、自分自身がコンピュータプログラマであることから、測定データの整理を少ない労力で行える仕組みづくりにも力を注ぎました。
みんなのデータサイトが各地の市民放射能測定室の測定データのデータベースとなっていることから、こちらへの阪神・市民放射能測定所の測定データのアップロードにも、力を注いでまいりました。
昨今のコロナ禍の影響で、測定活動の継続がさらに困難になっている現実に対しても、比較的IT化が進んでいる阪神・市民放射能測定所はリモートオペレーションを増やすことによって、測定件数を大幅に落とすことはなく、なんとか活動を継続しております。
人々の原発事故への関心が日増しに薄れる中で、測定依頼件数が激減している昨今ですが、少しでも測定依頼を増加させる仕組みをなにか考えて行ければ、と思っております。