この10年を振り返って
福島第一原発事故から約2ヶ月後、私の身近なところで身近な人たちが声を掛け合って放射能について考える会が開かれました。そこに参加していた子育て中のお母さんたちが集まって、不安を抱えたままひとりで悩まぬようにしよう、みんなでつながり話し合って考えよう、と「ひまわりの会ましこ」を発足させました。当時、各地にたくさんできたと思われるそんな母親の会のひとつです。そこに参加していた私は、2012年5月、益子放射線測定所が立ち上がりひまわりの会も測定の手伝いをすることになったことで、測定所と関わることになりました。
月日が経つにつれ測定依頼は減り、またひまわりの会のメンバーも子育てとの両立が難しかったり、放射能の影響の低い土地へ移住したりと参加人数が少なくなっていきました。そんな中、塩谷町の方を招いての学習会がありました。お話してくださった塩谷町の方がどういった方だったかよく覚えていませんが、その学習会で私は、不検出(検出限界値未満)の物が多くなっていく状況で測定を続けていく理由はあるのでしょうか?という質問をしました。測定を続けることが無意味だと思ったからではありません。周囲の放射能への関心が薄れていく現実に対して疑問を持ちながらも、それに対する言葉を私自身が持っていなかったからです。頂いた答えは、不検出の山を築いていくことが大事だということと、監視の役割があるというものだったと記憶しています。その後、ひまわりの会は約2年の活動期間を経て解散となり、私自身も多くの母親と同じように日常生活に追われ、測定所に足を運ぶのは測定の依頼をするときくらいになっていきました。
私が再び測定所と関わるようになったのは、益子放射線測定所の古川百合子さんの呼びかけで、東海第二原発再稼働に反対する「笑顔あふれるふる里益子を創る会」が測定所を中心に結成され、そこに参加することになった2017年です。会のメンバーから、市民の側に立って活動している科学者や専門家がいることや、みんなのデータサイトのことを聞きました。そして、そういった活動は、今だけではなく将来のためにもできるだけ多くの証拠を残しておくこと、そのために測定し記録し続けることが重要だと教えてもらいました。この問題に対する自分の考えを明確に持てるようになっていったのは、ここからだったと思います。
2020年12月、益子町議会が3月の議会でヨウ素剤備蓄のための予算を議会として町執行部に請求することが決まりました。福島原発事故が起こった2011年9月の議会では、母親たちの気持ちを代弁し子どもたちを守る対策をと発言してくださった議員への風当たりは強く、他の議員からは、親が過敏になり過ぎて子供に影響を与える、今の測定基準をもとにして抵抗力があるから大丈夫だよという方向性のものが必要だ、などという発言があったものです。あのときから10年。今や放射能問題は「重要案件」と議会の広報誌に明記されるほどになりました。
時間のかかることなのでしょうが、世の中も、人も変わる。私自身の変化も含めて、このことが、この10年を振り返って一番実感していることかもしれません。