2021年の3.11 市民測定の記録

 都内。地下で仕事をしていた金曜日の午後に襲ってきた、立っていられないような激しい揺れ。しばらくすると上司が「この建物古いから、もしかしたら崩れるかもしれない」というので、外に出てるのも危ないのにな、、、と思いながら注意しつつ大通りに出ると、通りの向こうに立っている10階建くらいのマンションが、立てたこんにゃくのようにグニャグニャと揺れていた。道路の街灯もグワングワンと頭を振っていた。 生まれて初めて見る、恐ろしい光景だった。 

 大津波の映像や余震に怯えながら、仕事場は設備が壊れて1週間閉鎖されたため、自宅にいた。原発が次々と爆発した。子どもも保育園に行かず、あまりテレビも付けずに家に閉じこもっていた。関西の実家から食料が届いてありがたかった。1週間後くらいには仕事もまた始まり、保育園に預けるようになっていた。 明日、東京方面に放射能が来るらしい、そんな噂をどこから聞いたのかももう忘れたけれど、前の年から始めた、子どもと一緒に育てていた区民農園の野菜を、食べられるものは全て収穫し、もう2度とここに来ないんだ、と覚悟して後にした。

 保育園は遠く、自転車で通っていたので雨に当たってしまった日もあった。その日のレインコートは暫く取っておいたけれど、今はもうない。

 赤ちゃんに水道の水を飲ませないで、という知らせが来て、粉ミルク用の水のペットボトルを小学校で配布するとのこと。 赤ちゃんがだめで、5歳6歳の子がOKってわけないよね? と、ペットボトルのお水を買って暮らした。汲み置きして2週間くらい置いといたら放射能なくなるらしいよ、っていう友だちがいたのだけど、理屈もわからず信じられなかった。(それは放射性ヨウ素のことを指していたらしいと、のちに知る)関西への母子避難も考え、関西は小学校も制服があるってことでどこで買えるのか?の相談までしたのだけれど、結局、家族で東京に残ることを選択した。

 牛乳・給食に不安があり、お弁当を持たせることにした。多分他にそんな人いなかったと思う。入学直後だったし、学校内でそういう情報交換のできる保護者はいなかったな。
 その後地元の「子ども守る会」と知り合い、情報共有や相談しながら栄養士さんや校長先生と話をして、献立表に材料と産地を明記してもらったり、産地を西のものに変えてもらうなど交渉した。しばらくは自分の子はお弁当にしていたし、牛乳も飲まなかったんだけど、ある日校長先生と話してたら、うちの子が飲まない牛乳(数は減らせないらしく毎日余ってた)は、飲みたい子が2本飲んでるというじゃない。え!それでは意味がない。自分の子だけ守れてもその子が2倍被ばくしてるかもしれないなんて・・ショックだった。それで一層献立の食材などについては話し合いするようになった。牛乳も、せめて余らないようにできませんかとお願いした。そしてお弁当ではなく給食がみんなと同じように食べられることを目指すようにした。

 そして自分で放射能の知識をどうやったら最新情報が手に入るか考えていたら、地元に市民測定所があることを知り、そこの測定員になり、自分の目で知りたいことを知る、つまり測定ができるようになった。その延長に「みんなのデータサイト」の誕生があった。

 実は、「みんなのデータサイト」っていう名前は、当時わたしが提案したものだ。いくつかの測定所で集まって、ネーミングを決める会議をやった。もっとかっこいいヨコ文字の名前も候補にあったように記憶しているけど、ちょっとダサいこの名前が選ばれて、うれしかったのを覚えている。 そのみんなのデータサイトの事務局として、自分が関わり、まさか本までつくって10年後の今まで携わっているとは、その時は思いもしなかった。

 測定することで初めて、わかることがあった。国は守ってくれないってこともよくわかった。東京でも最初の頃は当たり前に放射性セシウムは検出されていたけれど、時折福島でこんな高いところが見つかったよと教えてもらうその数字は、東京よりも何桁も大きくかった。東京なら30分とか1時間測定とか時には10時間とか測定するところが、測定器に載せた瞬間からピークが出るんだよ、、、なんていう話も聞いた。(それは後で報道されるほど高いものだった)。そういうものに、一般の人が触れられる(というかそこら中にある)ってこと自体、事故前だったらぜったいNGだった。

 今こうやって書いてると、まるでSFの世界でも書いてるみたいな錯覚に陥るけど、本当に、原発事故後の日本は 小説の中で暮らしているような 奇妙な感覚だ。だって、1キログラムあたり100ベクレルを超えたら密閉して黄色いドラム缶に入れてちゃんと保管しなきゃいけないという原子炉等規制法という法律があるから、原子力施設の中の方がよっぽど安全でクリーンで、他方、子どもが過ごす学校の校庭や家の庭、東北から関東までの広い土地が法律違反状態だなんて。レントゲン室はだらだら人がいちゃいけないし、その中で飲食も禁止だったりする。でもそれよりよほど線量が高く、放射性物質がいっぱいあるところに人が住んでいい、という謎の法律(特措法)ができて、住めなくされた大切な故郷の建物が壊されてきれいな道路ができて、そこをオリンピックの聖火リレーが走るなんて。

 わたしが使っていた電気が福島で作られていた電気と知ったから、せめての罪滅ぼしに、事故の影響を記録に残したい。国が測らないデータをたくさんとっておいて、これくらいの放射能があったんだよって記したい。健康や訴訟や、なにかで必要になった時に1つの証拠になったらいいと思う。
 そして2度とごめんだけど、万が一また原子力事故が起きたらどうしたらいいのか、の教訓を残すのも役目だと思っている。とくに若い人たちにその知識を持ってもらうことが大切と思う。

 もしもあの原発事故の時に、わたしに知識があったなら。 と思うから。


2021年の3.11 市民測定の記録