みんなのデータサイトとの関わり
2011.3.14の福島第一原発3号機の爆発映像を見たら、核爆発だと思った。
首都圏からの避難の車が山梨・長野方面に押し寄せ、中央道が大渋滞になると思ったが、全くそうはならなかった。
山梨の片田舎では、私は過剰反応だと、周りから言われ、孤立感を感じる日々だった。
大手マスコミの情報は信用できないし、出来る限り実際の状況を推測できるデータが欲しかった。
ネットで、10万円以上だして、ガイガーカウンターを買った。
よく分かっていなかったので、買えたのはDoseRAEだった。
この機種は空間線量の計測をするためのものではなかった。
それでも、2階のベランダに設置して、1時間置きに数値をノートに記録した。
そのようにして、悶々としながら、4月になったある日、八ヶ岳板垣塾(板垣雄三先生を招いて、パレスティナ/イスラエルに関する勉強会)のMLに47プロジェクトへのカンパ依頼のメールが送られてきた。
47プロジェクトとは、47都道府県の有志にガイガーカウンターを贈り、全国の空間線量を市民の手で計測しようという活動だった。
活動内容にすぐに賛同し、当時のRADEXの市場価格相当の6万円を寄付して、47プロジェクトの活動を支援することにした。
主要メンバーであるK氏、H氏、IW氏は精力的に活動し、特にIW氏はフランスのクリラッドとつながり、空間線量そして食品の計測活動を展開していった。
測定データが集まるにつれて、広く一般に測定データを公開しようという話になった。
なんちゃってIT技術者ではあるが、一応WEBサーバも立てられ、データベースも扱えたので、自宅にサーバを設置し、47PJのサイトでデータを公開するようになった。
自宅のサーバと回線は非力だったので、今のMDSのように検索機能はあえて作らず、毎晩最新のデータでページを更新するサイトであったが、その当時としては先駆けだったのではないかと思う。
測定データを記録するデータベースのテーブル定義やウェブサイトでの表示方法など、試行錯誤しながら、現在のMDSの原型となるシステムを開発した。
※写真は計測シートを受け取り、私がデータベースに入力していた当時もの。
47PJの活動から、CRMS市民放射能測定所の設立と進む中で、IT担当の裏方として福島市の最初の福島市民放射能測定所に行き、インターネット接続およびLANの設定など、できる範囲で一連の活動に関わっていたある日、各地に設立された測定所のデータを集約して、公開するみんなのデータサイトプロジェクトに関わることになった。
最初の打ち合わせは下北沢であった。47PJからのIW氏、そして、IM氏、W氏などと打ち合わせをして、リアルタイムでの検索機能を実現することなどが決まっていった。
そして、S先生のご尽力により、リアルタイム検索にも耐えられるサーバおよびネットワーク環境が提供されることになり、みんなのデータサイトの開発が始まった。
このような経緯で、みんなのデータサイトに関わってきました。出来る範囲で無理がないようにつかず離れずというスタンスで今日まで継続的に関わってきました。
これからも出来る範囲なので、微力ですが、みなさま、よろしくお願いします。